江戸屋since 1967
湯島を歩く

湯島は、坂の町である。
三組坂から歩いて十分の江戸

江戸屋が建つ坂には、名前がある。三組坂という。この名は四百年前のある出来事から付いた。 坂を上り下りするだけの短い道に、なぜそんな名前が残ったのか。そして、そこから歩いて十分の場所に、江戸と明治が何を残したのか。 宿の玄関を出てからの話をする。

2026年7月27日 ホテル江戸屋 読了 約7分
花と行灯が迎えるホテル江戸屋の玄関

坂の名は、四百年前の帰郷から来ている

元和2年、西暦でいえば1616年。徳川家康が駿府で死んだ。 家康に付き従っていた者たちのうち、中間(ちゅうげん)、小人(こびと)、駕籠方(かごかた)という三つの組の者が、 江戸へ召し返された。そして彼らは、この一帯に屋敷を賜った。

駿河から帰ってきた者たちの町だから、里の人々はここを駿河町と呼んだ。 それから八十年たった元禄9年(1696)、三組の御家人が拝領した土地であるという由来を大切にして、町名は正式に三組町と改められた。 坂の名は、その町にある坂だから三組坂という。

元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。

文京区 三組坂の由来より

三組町という地名は、昭和40年(1965)4月に消えた。住居表示の変更で、湯島3丁目になったからである。 三百年近く呼ばれた名前が、そこで途切れた。

その二年後、この坂に宿が建った。屋号を、江戸屋という。

三組坂について
所在
東京都文京区湯島3丁目。江戸屋の建つ坂そのもの
名の由来
中間・小人・駕籠方の三組の御家人が拝領した土地
元和2年
1616年。家康の死により三組が江戸へ帰る
元禄9年
1696年。町名が正式に三組町となる
昭和40年
1965年4月。住居表示により湯島3丁目へ。三組町の名が消える
屏風と小さな庭を眺める江戸屋のロビーラウンジ
坂を上りきった先の玄関を入ると、小さな庭に面したロビーがある。三組坂の名を知らずに通り過ぎる人がほとんどだが、ここは四百年前に三組の御家人が賜った土地である。

湯島天神は、菅原道真より九百年古い

坂を下って五分ほど歩くと、湯島天満宮がある。受験のころに来たことがある人も多いはずだ。 学問の神様、つまり菅原道真を祀る神社として知られている。

ただし、この神社が建ったとき、そこに道真はいなかった。

社伝によれば、創建は雄略天皇2年(458年)。勅命によって建てられ、 祀られていたのは天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)である。天岩戸を開いた、力の神だ。 菅原道真が合わせて祀られたのは、そこから九百年近くたった正平10年(1355年)2月のこと。 郷の民が勧請した、と伝えられている。

つまりこの場所には、学問の神様が来る前から、九百年ぶんの信仰が積もっていた。 梅の季節に人が集まる境内は、そういう時間の上にある。

徒歩十分圏に、明治がもう一つある

湯島でもう一つ見るべきものを挙げるなら、旧岩崎邸庭園を選びたい。江戸屋から歩いて十分ほどである。

明治29年(1896年)、三菱の三代目社長である岩崎久彌の本邸として建てられた。 設計はジョサイア・コンドル。鹿鳴館を設計した、あのイギリス人建築家である。

もとの敷地はおよそ一万五千坪あり、建物は二十棟を超えていた。 いま残っているのは、洋館、撞球室、和館大広間の三棟だけである。 一階のベランダにはイギリス製のミントンタイルが敷かれ、二階では和紙を使った装飾壁紙、金唐革紙の復元を見ることができる。

洋館と撞球室が国の重要文化財に指定されたのが昭和36年(1961年)、和館大広間が昭和44年(1969年)、 敷地と構成全体が指定されたのは平成11年(1999年)のことだ。

撞球室とは、ビリヤード場のことである。洋館から地下道でつながっている。
客に見せるための豪奢ではなく、地下を通って遊びに行くという設計に、当時の暮らしが残っている。

旧岩崎邸庭園(東京都公園協会)の公開情報より
ホテル江戸屋の玄関を彩る花と行灯 座卓の奥に布団を整えた江戸屋の和室
花と行灯が迎える江戸屋の玄関。湯島を歩いて帰ってきたら、畳の部屋で足を伸ばす。

歩いて回れる、江戸屋からの道のり

この宿を選ぶ理由のひとつは、たぶん立地である。ただし駅に近いという意味ではない。 江戸と明治が、歩いて回れる距離に固まっているという意味だ。

湯島天満宮(湯島天神)
徒歩 約5分
社伝では458年創建。1355年に菅原道真を勧請。梅まつりは2月から3月。境内は早朝から開いており、宿から散歩の距離にある。
旧岩崎邸庭園
徒歩 約10分
1896年、ジョサイア・コンドル設計。国の重要文化財。洋館・撞球室・和館大広間の三棟が残る。ミントンタイルや、復元された金唐革紙の壁紙が見どころ。
湯島聖堂
徒歩 約12分
元禄3年(1690)、五代将軍綱吉が建てた孔子廟に始まる。のちの昌平坂学問所。黒い建物と大成殿の静けさは、上野の賑わいと対照的である。
神田明神
徒歩 約13分
江戸総鎮守。秋葉原へ下る坂の途中にあり、参拝のあとそのまま電気街へ抜けられる。江戸と現代が最も短い距離で並ぶ道。
不忍池
徒歩 約10分
夏は蓮が池を埋める。朝の六時台がもっとも静かで、宿を出てひと回りして朝食に戻れる距離にある。
東京国立博物館・上野公園
上野公園を経由
上野の山まで歩いて行ける。博物館は通常月曜休館。行き方と、祝日や特別開館日などの例外は、公式のアクセス・開館案内をご確認ください。桜の時期は宿から公園まで、人混みを避ける裏の道がある。
アメ横
徒歩 約12分
夕方から夜にかけてが本領。宿から歩いて行って、飲んで歩いて帰れる。
秋葉原
徒歩 約15分
神田明神の脇を下ればすぐに着く。電車に乗らずに行ける距離だと、着いてから気づく人が多い。

坂の上に泊まるということ

竹垣と植栽に囲まれた江戸屋の露天風呂
六階の湯処。坂の上に建つ宿の、さらに上にある。歩いた分の疲れをここで落としてもらうために作られた場所である。

湯島は坂の町である。三組坂、実盛坂、ガイ坂、中坂。短い坂がいくつも入り組んでいて、 そのぶん、通り抜ける車が少ない。

江戸屋はその坂の上にある。湯島駅からは徒歩五分だが、最後の一区画が上りになる。 正直に言えば、荷物が重い日は少しこたえる。 そのかわり、夜は静かだ。上野からも秋葉原からも歩いて帰れる場所で、 窓を開けて寝られるくらいには静かだというのは、この街ではあまりない条件だと思っている。

六階の露天風呂は、その坂の上のさらに上にある。 昼間に歩いた分の疲れを、そこで落としてもらうために作られた場所だ。

湯島は、上野や浅草と何が違いますか

観光地としての賑わいは上野や浅草のほうが上です。湯島は、上野と秋葉原のあいだにある住宅と坂の町で、夜に静かなことが最大の違いになります。

上野公園まで徒歩15分、秋葉原まで徒歩15分。どちらにも歩いて行けて、帰ってくると静かである、という位置関係です。

湯島天神へは、宿からどう行きますか

三組坂を下って、春日通りに出て左へ。徒歩約5分です。男坂と女坂という二つの階段があり、女坂のほうが段差がゆるやかです。

朝の散歩に向いている場所はありますか

不忍池です。宿から徒歩10分ほど、夏の朝は蓮が開きます。六時台がもっとも人が少なく、ひと回りして朝食に間に合います。

湯島天神の境内も早朝から入れます。こちらは徒歩5分です。

坂は、どのくらいきついですか

三組坂そのものは短い坂です。ただし駅から宿までの最後の一区画が上りになるため、大きな荷物があるときはタクシーを使う方もいます。湯島駅から宿までは、平坦な道を選んでも徒歩7分程度です。

この記事の出典
  1. 三組坂の由来について。文京区の坂の解説(元和2年の三組召還、元禄9年の三組町改称、昭和40年4月の湯島3丁目化)
  2. 湯島天満宮の由緒。社伝による雄略天皇2年(458年)創建、正平10年(1355年)2月の菅原道真勧請。文京区 湯島天満宮
  3. 旧岩崎邸庭園。明治29年(1896年)岩崎久彌本邸として建設、ジョサイア・コンドル設計、旧敷地約15,000坪・20棟以上、現存3棟。重要文化財指定は洋館・撞球室が1961年、和館大広間が1969年、敷地全体が1999年。公益財団法人東京都公園協会。金唐革紙の素材と復元については、同協会の「岩崎家ゆかりの都立庭園」(PDF)
  4. 各所要時間は江戸屋(文京区湯島3-20-3)からの徒歩の目安です。実際の所要は経路と歩く速さで変わります
坂の上に、四十五の畳の部屋があります
六階に露天風呂とサウナ。朝食は無料。
湯島駅から徒歩五分、上野へも秋葉原へも歩いて行ける距離です。
空室を見る
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